竹千代誘拐事件(潮見坂と裁断橋)
   
 

 

 
 
○織田氏、竹千代を人質として奪う

天文16年(1547年)織田信秀の三河への圧力が強まり今川義元の援助を引き出す為に、松平広忠は嫡子竹千代を人質として駿河へ送ることになった。
竹千代の護送には金田与三左衛門正房が20数名の武士を率いる責任者の立場で参加した。
一行は船で渥美半島に上陸、竹千代の継母(田原御前)の父田原城主戸田康光に迎えられたが、戸田康光の策略にはまり竹千代を織田信秀のもとに送られてしまう。
このことは、山岡荘八著「德川家康」で名文をもって竹千代誘拐事件として書き綴られています。
小説では最後まで竹千代に従っていた金田与三左衛門正房が戸田方の策略を阻止できないと観念すると、戸田方の目の前で責任をとって見事な切腹をして果てたと書かれています。
 
しかし、金田近二氏は金田与三左衛門正房の最後について小説と異なった見解を持っていました。
この事件を伝える資料や古文書を調べた結果、2つの説がでてくると述べています。→

 
第1説
金田与三左衛門正房率いる岡崎の武士と戸田方の武士が潮見坂で壮絶な斬り合いとなり、金田与三左衛門正房は戸田方に斬り殺された。

第2説
戸田方の策略にはまり竹千代を奪われてしまう。まさか、竹千代の継母(田原御前)の父田原城主戸田康光に裏切られるとは思わなかったのだろう。戸田康光は後に今川義元の怒りを買い、攻め滅ぼされたことからも当該行為が極めて危険な賭けだったからである。
金田与三左衛門正房は戸田方に欺かれたことを知ってから、陸路織田領に入り現在の名古屋市熱田区に向かった。
熱田神宮近くにある加藤図書助邸に幽閉されている竹千代を救おうと秘かに機会を狙っていたが、不幸にも織田方に捕まって処刑されてしまった。織田方は見せしめに加藤図書助邸近くの精進川の東海道筋に架かっていた裁断橋付近にさらし首にしたとのことです。


金田近二氏は資料や古文書では第2説が圧倒的に多いので、第2説を支持しています。
いずれにしても、金田与三左衛門正房が無念な最後を遂げたことは事実のようです。


 
 
 
竹千代が幽閉されていた加藤図書助邸跡(名古屋市熱田区伝馬2丁目13番)
 
 


 金田与三左衛門が織田方に処刑されさらし首となった場所付近にあった裁断橋。当時は精進川の東海道筋に架かっていたが、大正15年に精進川は埋め立てられてしまった。現在ある裁断橋跡は平成5年に再建された姥堂の池にかかる橋として再建されたが、あまりに縮小されてしまった。(名古屋市熱田区伝馬2丁目5番)
かって精進側は姥堂の東側を流れていたとのことだが全く面影はない。