|
江戸時代、上野の桜は寛永寺境内にあったため花見宴は許されていなかった。
八代将軍徳川吉宗は、熊野権現信仰である王子権現に特別な感情を持っていた。そこで吉宗は自ら飛鳥山で花見の宴会を催し、飛鳥山を江戸市民がお花見を楽しめる場所にした。飛鳥山の花見は江戸市民の観光地として定着し、今日までずっと続いている。
王子付近の石神井川は、吉宗によって紀州ゆかりの音無川と命名された。
江戸時代の北区は江戸市民の観光地であり、自然に恵まれた長閑な場所だった。
しかし、明治時代になると製紙工場・化学工場・軍需工場が進出したため、北区は軍隊と工場の街のイメージが強くなってしまいました。
昭和20年、太平洋戦争の終結により軍需工場が閉鎖された。更に、高度成長期に法的な規制や公害問題などにより多くの工場が地方へ移転していった。昭和63年「国の行政機関等の移転について」の閣議決定※を受けて、研究所や大学も移転していった。
その跡地には団地・公園・学校等が計画的に建設され北区の街並は一変したのであった。
今日、戦後それらの場所に植栽された桜が春になると美しく花を咲かせてくれています。
そこで、北区のお花見の名所を系統的に紹介させていただきます。
※東京一局集中を是正し、国土の均衡ある発展を図ることを 目的に国の行政機関等を東京都区部から移転することが決定された
|
|
|