金田正祐と金田寺
     
     
 


金田正祐は松平広忠に仕え御近習に列していた。
天文12年(1543年)広忠夫人 於大の方の父水野忠政が没すると、於大の方の兄水野信元が家督を継いだ。
水野信元は尾張織田氏への協力を明らかにし、織田信秀の三河侵攻に協力するようになった。
天文14年(1545年)今川氏の庇護によってようやく松平氏を存続させている松平広忠は、於大の方を離縁せざるを得なくなった。於大の方を水野家へ送り届ける付人に選ばれたのが、金田正祐と阿部定次である。この時、於大の方の気転により水野信元によって殺されることなく、無事に戻ることができた。このことは、山岡荘八著 徳川家康に詳しく記載されている→。
天文15年(1546年)三河上野上村城の松平清定・家次親子と松平広忠が戦い、松平広忠は勝利した。金田正祐は9月6日の戦いで戦死してしまった。松平広忠は金田正祐の死を悲しみ、金田正祐の屋敷跡に金田寺を創立した。於大の方が、後に德川家康に金田正祐の忠死を伝えたので、金田寺には寺両10石が德川家から寄進された。
金田正延・正辰・正成の代に活躍の場が与えられ、本家が上級旗本(寄合)になることができたのも、金田正祐の忠死を德川家が尊重してくれたことによるものと思われる。
金田寺はその後現在地に移ったが、創立時の場所は現在の場所(岡崎市湊町1-21)からそんなに離れていなく、現在は住宅地になっているとのことです。
正式名称は、照光山金田寺安養院。寺の紋章も三輪違い。初代住職は義覚利玄上人。
安養院の名称は、金田正祐の戒名「安養院殿碧鳳照観居士」からとっている。
天文18年1549年松平広忠が没した時に、安養寺住職義覚利玄上人が大林寺で行われた葬儀に列席したことが寺の記録に残っているとのことです。但し、広忠の死因は今も不明で、松応寺で密葬が行われたとの説も有力で、大林寺以外にも大樹寺など複数広忠のお墓があるということも事実です。

金田正祐のお墓は現在も安養院によって守られています。延享3年(1746年)にお墓は建替えられましたが、当時の金田家の資料によった為、墓石に「永禄6年(1563年)三河中芝で戦死 19歳」と彫られています。これは、三河上野の戦いについて、【天文15年(1546年)の戦】と【永禄6年(1563年)三河上野上村城の酒井忠尚が一向一揆に加担して、家康と戦って負け駿河に逃げた戦】とを混同したことが原因と思われます。
安養院の太田光昭住職は、墓石の記録は間違った資料によるものでと【天文15年(1546年)の戦】が正しいと主張しています。死亡年齢が19歳だと18年前の於大の方を送り届ける付人が1歳の乳児になってしまい、金田正祐に係る資料と矛盾しているからです。

安養院は大林寺(岡崎市魚町1-6)の末寺で浄土宗西山深草派に属しており、本山は京都の誓願寺。
昭和20年7月20日の岡崎空襲で寺の建物や寺宝が全て焼かれてしまったのは、お寺にとっても金田家にとっても大変残念なことであります。
 


 


 安養院
 
 

安養寺本堂
 
 

金田正祐の墓
 
 

正面から見た金田正祐の墓
 
 

金田正祐が戦死した上野の戦いがあった三河上野城址(上・下)
 愛知県豊田市上郷町薮間