金田正祐と金田寺
     
 

金田正祐は松平広忠に仕え御近習に列していた。
天文12年(1543年)広忠夫人 於大の方の父水野忠政が没すると、於大の方の兄水野信元が家督を継承し刈谷城主となった。
水野信元は織田信秀の三河侵攻に協力することで反今川を鮮明にした。

水野信元の妻は桜井松平家の松平信定の娘であったことが影響したのではないだろうか。
天文4年(1535年)松平清康が守山崩れで非業の死を遂げると、織田信秀と縁戚関係のある松平信定は幼い松平広忠(当時10歳)から実権を奪ってしまった。
その後松平広忠は伊勢国に逃れ、更に駿河守護今川氏を頼り天文6年(1537年)になって三河国に戻ることができた。
松平広忠が三河国に戻り実権を掌握すると松平信定は広忠に帰順したが、帰服とは言えない状態が続き天文7年(1538年)に没した。その後も桜井松平家の松平清定・家次親子は松平広忠に反抗的態度を続けた。当時桜井松平家・水野信元など三河国には織田信秀と結び松平広忠に対抗した勢力が存在していたのである。

天文13年(1544年)今川氏の庇護によってようやく松平氏を存続させていた松平広忠は、上記のような情勢から於大の方を離縁せざるを得なくなった。於大の方を水野家へ送り届ける付人に選ばれたのが、金田正祐と阿部定次なのであった。この時、於大の方の気転により水野信元によって殺されることなく、無事に戻ることができたことが、改正三河後風土記の一節に書かれております。→CLICK
更に山岡荘八著 徳川家康にもこのことが記載されています。→

ここで注目したいのは登場人物の年齢なのである。
松平広忠は19歳。前年に竹千代(後の徳川家康)を出産した於大の方は17歳。金田正祐は20歳。
阿部定次は年齢不詳だが、兄阿部大蔵定吉が40歳で定次の嫡子次重が天文17年(1547年)に戦死することから、広忠からすれば父親ぐらいに感じる年齢だったはずである。
阿部大蔵定吉は「嫡子正豊が守山崩れの清康殺害の犯人」とされた人物だが、松平広忠の代になっても定吉が信頼を得ていることから、「松平信定による謀略で阿部正豊が犯人にされたこと」を家中の者は皆知っていたのであろう。当然ながら阿部定吉の弟阿部定次も広忠から信頼を得ていたはずである。

通常ならば阿部定次が於大の方を刈谷城に届ける一行の中心的存在で、金田正祐は一行の一員的存在なはずである。
このようなことになったのは、松平広忠の於大の方に対する深い愛情と金田正祐との強い信頼関係があったことが理由に挙げられる。本来ならば最後まで於大の方を手放したくなかったし、送り届けるのも広忠自身が送り届けたい気持ちだったのである。
松平信定に実権を奪われ伊勢国・駿河国に僅かな近習とともに放逐されていた頃から、松平広忠とともに苦楽をともにしてきたのが金田正祐なのであった。年齢も近く気持ちの通じていた金田正祐に愛する於大の方を刈谷城に届ける役目を命じたのであった。
これに驚いたのは阿部大蔵定吉であった。20歳の若者では敵対する行動をとっている水野信元に太刀打ちできないのではと考え、弟の阿部定次に命じて金田正祐を補佐するため一行に加わらせたのであった。
結局、17歳の於大の方の深い思慮で事なきを得たのが真相であった。

天文15年(1546年)三河国上野城(上野上村城)の松平清定・家次親子と松平広忠の間でが前年から戦いが続いていた。松平清定・家次親子に酒井将監忠尚が加わり上野城に籠城したたので松平広忠は苦戦していた。
そこで敵方を城からおびき出す作戦が練られた。おとり部隊として先陣を城に近づけ鬨の声をあげ敵方を城からおびき出すのだが、おとり部隊は大変危険な任務だったのである。金田正祐はこの危険な任務に自ら願い出て中根甚太郎とともに壮絶な最期を遂げたのであった。22歳であった。
その結果上野城は落城し松平清定らは降伏した。翌年降伏した酒井将監忠久が上野上村城の城主になる。※


松平広忠は金田正祐の死を悲しみ、金田正祐の屋敷跡に金田寺を創立した。後に徳川家康は於大の方から金田正祐の忠死を伝えられ、三代将軍徳川家光は金田寺には寺両10石を寄進し保護した。
金田寺はその後現在地に移ったが、創立時の場所は現在の場所(岡崎市湊町1-21)からそんなに離れていなく、現在は住宅地になっているとのことである。
正式名称は、照光山金田寺安養院。寺の紋章も三輪違い。初代住職は義覚利玄上人。
安養院の名称は、金田正祐の戒名「安養院殿碧鳳照観居士」からとっている。
天文18年1549年松平広忠が没した時に、安養寺住職義覚利玄上人が大林寺で行われた葬儀に列席したことが寺の記録に残っているとのことです。但し、広忠の死因は今も不明で、松応寺で密葬が行われたとの説も有力で、大林寺以外にも大樹寺など複数広忠のお墓があるということも事実です。

金田正祐のお墓は現在も安養院によって守られています。延享3年(1746年)にお墓は建替えられましたが、当時の金田家の資料によった為、墓石に「永禄6年(1563年)三河中芝で戦死 19歳」と彫られています。
これは、三河上野の戦いについて、【天文15年(1546年)松平清定・家次親子との戦】と【永禄6年(1563年)三河上野上村城の酒井忠尚が一向一揆に加担して、家康と戦って負け駿河に逃げた戦】とを混同したことが原因だと思いましたが、金田氏家史研究を進めた結果、徳川家にとっても金田家にとっても隠さなければならない重大な秘密の存在に気づきました。
安養院の太田光昭住職は、墓石の記録は間違った資料によるものと【天文15年(1546年)の戦】が正しいと主張しています。寺の記録からも天文15年が正しいのは明瞭なのです。金田正祐については更に研究する必要があります。

安養院は大林寺(岡崎市魚町1-6)の末寺で浄土宗西山深草派に属しており、本山は京都の誓願寺。
昭和20年7月20日の岡崎空襲で寺の建物や寺宝が全て焼かれてしまったのは、お寺にとっても金田家にとっても大変残念なことであります。
 


※酒井将監忠尚の家臣榊原長政の子として榊原康政が生まれました。上野城趾には榊原康政誕生の地の碑が建てられている。

 


 安養院
 
 

安養院本堂
 
 

金田正祐の墓
 
 

正面から見た金田正祐の墓
 
 

金田正祐が戦死した上野の戦いがあった三河国上野城址
 愛知県豊田市上郷町薮間
 

上野城趾と書かれた碑が立っている
 

榊原康政誕生の地の碑と上野城絵図