北区の産業と文化 |
交 通 農産物と行楽(江戸時代) 産業の発展 (明治) 産業の発展 (大正) 産業の発展 (昭和) |
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交 通 |
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江戸時代 徳川家康の江戸開府以後、東海道・中山道など主要五街道の整備が行われた。その後、川越街道・岩槻街道なども順次整備されていった。 岩槻街道は歴代将軍が日光参拝に御成りになる道であった為、日光御成道ともいわれるようになった。北区通過の将軍の行列は、金輪寺(岸町1-12-22)、地福寺(中十条2-1-20)を将軍の小休息所にたびたび指定した。 岩槻街道は今日のJR京浜東北線の軌道に沿って、北区を南北に通っていた。 現在の本郷通りで駒込駅→飛鳥山→北区役所→清水坂→赤羽駅西口を経て、更に宝幢院→八雲神社→岩淵の渡し場→(荒川)→川口にいたる道である。 西ヶ原の一里塚は岩淵街道を整備した時に築かれた。日本橋より二里のところにあり、23区内で当時の位置のまま残された唯一のもの。国指定史跡である。 営団南北線赤羽岩淵駅から岩淵の渡し場までの間に岩淵宿があった。 滝野川には中山道が通っていた。板橋宿は平尾宿・中宿・上宿と続いていた。 平尾宿はJR埼京線板橋駅近くの旧中山道沿いにあった。滝野川六丁目と板橋一丁目にまたがっていた。平尾宿に平尾一里塚があった。 明治時代〜現代 明治16年 日本鉄道会社高崎線上野-熊谷間開通。王子駅開業。 明治18年 日本鉄道会社山手線赤羽-品川間開通。赤羽駅・板橋駅開業。 明治29年 土浦線(後に上野発の常磐線になる)田端-土浦間開通。田端駅開業。 明治36年 山手線田端-池袋間開通。 明治42年 赤羽-池袋、田端-上野間電化。 明治43年 十条駅、駒込駅開業。 明治44年 王子電気軌道、飛鳥山-大塚間(現在の都電荒川線)開通。 大正 2年 王子電気軌道、飛鳥山下-三ノ輪間開通。 大正14年 王子電気軌道、飛鳥山下-王子駅前間開通。 大正15年 王子電気軌道、王子駅-神谷橋間開通。 昭和 2年 王子電気軌道、神谷-赤羽間開通。 昭和 4年 日暮里-尾久-赤羽間開通。尾久駅開業。 昭和 5年 下十条(後の東十条)駅開業。 昭和 8年 上中里駅開業。 明治通りが完成。昭和2年に環状五号線して計画され、毎日新聞の前身東京日日新聞社が名称を公募した。「明治通り」「環城通り」にしぼられ、府知事などの審査により「明治通り」となった。 昭和17年 王子電気鐡道、東京市電に統合。翌18年都電に名称変更。 昭和33年 明治通りにトロリーバス開通。 昭和43年 トロリーバス廃止。12月都営地下鉄三田線(当時は6号線、巣鴨-高島平間)開通。西巣鴨駅・新板橋駅開業。 昭和49年 都電撤去終了。三ノ輪-早稲田間のみ都電荒川線として残る。 昭和60年 埼京線開通。北赤羽駅・浮間舟渡駅開業。 3月東北新幹線開通。(上野-盛岡間)、但し昭和57年6月に大宮-盛岡間暫定開業。 平成 3年 11月営団南北線赤羽岩淵-駒込間開通。赤羽岩淵駅・志茂駅・王子神谷駅・(営団)王子駅・西ヶ原駅開業。 平成12年 9月営団地下鉄南北線(赤羽岩淵-目黒間)全通。 平成13年 3月埼玉高速鉄道(愛称彩の国スタジアム線)開業。赤羽岩淵で南北線乗り入れ。 平成14年12月埼京線大崎まで延伸。(東北新幹線も八戸まで延伸) りんかい線に乗り入れ開始。お台場・東京ディズニーランド方面が便利に。 |
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農産物と行楽(江戸時代) |
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北区の村々は江戸の近郊ということから、野菜の生産と出荷が大きな意味を持っていた。 滝野川のニンジン、滝野川・王子・十条のゴボウ、西ヶ原・中里のナスが有名で、他に大根・レンコンも栽培されていた。 特産品として茶と種子が人気があった。 飛鳥山・王子神社に遊びに来た帰りに、「王子の土産」として茶を買っていった。 現在も滝野川消防署三軒家出張所(滝野川5-39-3)の名に残っている「三軒家」は、江戸時代に中山道にあった種子屋のことであった。 桝屋孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三軒の種子屋があった。主に野菜種子を売っていた。 中山道を通る旅人に名物練馬大根の種子を販売したのが始まりであった。その後、滝野川ニンジンの種子なども加わり三軒家の種子は有名になった。中山道を通る大名家の中にも、この種子屋から種子を買い求め、自藩で栽培させて藩もあったそうである。そんなことから、滝野川の種子は全国的にも有名になった。 植木屋・園芸店も盛んであった。西ヶ原村に植木屋仁兵衛がつくった植木御用庭園の「西ヶ原牡丹屋敷」は、明治になり陸奥宗光邸になった。その子潤吉が古河家の養子となったことから古河家の所有となり、洋館・洋式庭園も加わり「旧古河庭園」となった。 江戸時代中頃から、日暮里・道灌山・駒込・飛鳥山・王子にかけて、江戸近郊の行楽地・観光地であった。 徳川家康が王子権現崇拝し保護した。更に徳川吉宗が熊野権現信仰である王子権現に特別な感情を持っていた。王子神社から石神井川沿いに王子・滝野川を江戸市民の観光地とした。 春は飛鳥山の桜、秋は滝野川の紅葉が有名になった。 上野の桜が寛永寺境内にあったため花見宴は許されていなかった。そこで吉宗は自ら飛鳥山で花見の宴会を催した。飛鳥山の花見は今日までずっと続いている。 王子付近の石神井川を、吉宗が紀州ゆかりの音無川と命名した。音無川の清流に多くの茶店ができた。吉宗は金剛寺(滝野川3-88-17)付近に100本の楓を植えさせた。以後金剛寺は紅葉寺として有名になった。 石神井川とその支流には、「王子七滝」といって、名主の滝・稲荷の滝・権現の滝・大工の滝・見晴の滝・不動の滝・弁天の滝があった。名主の滝は現在も名所になっている。 その中でも不動の滝が人気集め、正受院(滝野川2-49-5)は参詣者が絶えることがなかった。 江戸市民は正受院で着物を脱ぎ、何回となく石神井川にはいった。そして本堂で弁当や寿司を食べて夕方に帰路についた。浪花亭という茶屋もできた。 王子稲荷は、商売繁盛の神として町人から厚い信仰を受けた。関東の稲荷信仰では常陸の笠間稲荷と並ぶものがあった。稲荷の門前には参拝に来る人々の休息茶屋が次第に増え、現在でも玉子焼きで有名な扇屋(岸町1-1-1)のように料亭に成長したものまで現れた。 田端から上中里・西ヶ原を中心に、将軍家の鷹場と定められていた。江戸時代、この岩淵筋と併せて、葛西筋・戸田筋・中野筋・目黒筋・品川筋全部で六筋の鷹場りを八代将軍吉宗が定めた。 生類憐み令で有名な五代将軍綱吉が廃止した鷹狩りを、吉宗が復活させ幕末までつづいた。現在の北区滝野川会館の東側周辺に兎御用屋敷跡がある。1万2532坪という広大な敷地に鷹狩り用のウサギを飼育するために構えられた。 現在の滝野川公園・滝野川消防署・財務省印刷局東京病院・財務省印刷局滝野川工場・滝野川警察署のある地は御殿山と呼ばれていた。明治11年の地図を見ると池を中心とする規模の大きな庭園又は庭園跡地が書き込まれている。御殿山は将軍が鷹狩りの時に使用する殿舎が建っていた。林羅山はその殿舎を舟山茶亭と呼び「舟山茶亭記」と題する一文も撰している。 |
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産業の発展 |
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明治 |
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幕末になると、旧醸造試験場(滝野川2-6)に大砲鋳造のための反射炉を建設することになった。 結局幕府が倒れ実現しなかった。この場所で鹿島万平が紡績工場を明治3年に建設し、後に手狭になって墨田区へ移転した。ここが北区の近代産業発祥の地といえる。そして明治37年に大蔵省醸造試験場が設置された。 明治 5年 現在の桐ヶ丘団地に兵器支廠赤羽根火薬庫建設。 明治 6年 王子製紙の前身「抄紙会社」設立。 明治 8年 現在東武ストアなどがあるサンスクエア・ゴルフ練習場の地(王子一丁目)に、「抄紙会社」の製紙工場完成、破布を原料に抄造開始。明治26年「王子製紙」に商号変更。 洋紙発祥之地記念碑 明治9年 内閣印刷局の抄紙工場を現在の王子一丁目に建設。(現在の財務省印刷局王子工場) ◎この年、現在の板橋区加賀にあった金沢藩下屋敷跡地(広さ21万7939坪)に陸軍砲兵本廠板橋属廠建設。(明治12年陸軍砲兵工廠板橋火薬製造所と改称) 後述する明治38年に陸軍が板橋火薬製造所に隣接する現在の十条台の畑・雑木林約10万坪を買収し、東京砲兵工廠銃砲製造所を移転開設した。 昭和15年に北区側(滝野川工場・王子工場等含む)を第一陸軍造兵廠東京工廠(以後一造と呼ぶ)、そして板橋区側を東京板橋陸軍第二造兵廠(以後二造と呼ぶ)に組織変更された。 北区中央公園にある中央公園文化センターが、一造の本部であった。一造は銃砲弾・薬莢・銃砲関連精密・光学機器などを製造し、二造は火薬の製造・研究が行われた。 以下では板橋火薬製造所に呼び方を統一し、滝野川・王子などの工場は板橋火薬製造所○○工場という呼び方にする。 現在の都営滝野川三丁目アパート・都立王子工業高校などの地(滝野川三丁目)に、板橋火薬製造所分工場(雷汞場)建設。 明治18年 現在の日本たばこ機械センター・都住宅公社堀船住宅など(堀船二丁目・三丁目)の地に、印刷局抄紙部製薬課の工場建設。苛性曹達・硫酸などの製紙用薬品を作った。軍需にも民間需要にも応じていた。 明治28年になると工場は陸軍省に移管され、板橋火薬製造所王子製薬場となった。 民間への供給に対応するため、明治22年御料局佐渡支庁付属王子製造所設立を経て、明治28年に民間資本の合資会社王子製造所を設立した。明治29年に関東酸曹株式会社が設立されてから、工場は現在の豊島五丁目団地の地に移った。関東酸曹はその後大日本人造肥料・日産化学と名称が変わった。日産化学王子工場は昭和44年に移転し住宅公団の団地になった。 明治19年 現在の財務省印刷局東京病院の地(西ヶ原二丁目)に蚕業試験場が移転。蚕業試験場は後に東京高等蚕糸学校となり、昭和15年に小金井に移転。(現在の東京農工大学工学部)。 東京高等蚕糸学校発祥之地記念碑 明治20年 現在の星美学園の地(赤羽台四丁目)に陸軍第一師団工兵大隊が移転(大正8年完成)。現在の国立王子病院の地に近衛工兵大隊が移転。 明治23年 現在の滝野川公園(西ヶ原二丁目)の地に農事試験場移転。 明治24年 現在の赤羽台団地に陸軍被服本廠建設。(大正8年にすべてが移転し完成) 明治28年 現在の駿台学園・都立北高校の地(王子六丁目)に、板橋火薬製造所王子工場建設。広さが6万坪あり、前述の板橋火薬製造所王子製薬場の堀船の地が3万坪あった。 明治32年 下瀬雅允が開発した下瀬火薬を製造するため、西ヶ原の東京外国語大学の地(西ヶ原四丁目)に海軍下瀬火薬製造所建設。この場所は江戸時代幕府の薬草園であった。 *下瀬雅允 印刷局で紙幣インキ改良を行っていた。後に海軍技師に転じ火薬の研究をはじめる。 高性能の新爆薬の合成に成功し下瀬火薬として海軍に採用され、下瀬火薬工業所の所長となった。下瀬火薬は日露戦争の日本海海戦に威力を発揮した。 東京外国語大学は昭和19年に下瀬火薬製造所跡地(昭和6年に廃止)に移転したが戦災で校舎消失、昭和24年に校舎を再建した。平成15年に府中キャンパスを完成させ移転する予定。 明治38年 現在の十条駐屯地・中央公園などの地に小石川(現在の東京ドーム・後楽園遊園地)から、東京砲兵工廠銃砲製造所移転。 明治39年 現在の西が丘サッカ-場(西が丘三丁目)に東京兵器支廠(板橋兵器庫)建設。 板橋火薬製造所稲付射的場を現在の梅木小学校・うめのき幼稚園の地に設置。 明治41年 現在のキリンビ-ル東京工場跡地(堀船四丁目)に下野紡績(後に三重紡績となり東洋紡績に合併された)王子工場建設。 明治43年 現在の王子五丁目団地の地(王子五丁目)に、印刷局抄紙部分工場建設。大正5年に王子製紙に払い下げられ、王子製紙十条工場となる。 軍施設の相つぐ転入は、北区の住民生活が影響した。軍関係者の居住者や軍事関連の工場が増えたことにより商店街が発展したが火薬工場の爆発事故など災いもおきた。 軍施設は北区の面積の1割にも達した。 |
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大正 |
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大正 4年 現在のダイエー赤羽店の地(赤羽二丁目)に日本製麻設立。後に合併し帝国製麻となる。 大正 5年 豊島五丁目に鈴木商店王子精油所建設。(現在の日本油脂王子工場) 大正 6年 現在の公団フレーシェル王子神谷の地(豊島八丁目27番)に日本フェルト設立。 大正12年 関東大震災(参考 読売新聞2003年9月2日朝刊記事) 被害状況
平成13年の北区の人口は317127人です。 現在の北区に相当する上記3町の人口を合計すると167275人、現在の北区の人口の約半分に相当する。 滝野川町が大半が台地のため被害が少なかった。 王子町の死者・行方不明が多いのは、工場の倒壊や紡績工場の火災によるもの。 大正13年 岩淵(赤)水門完成。 明治43年の大洪水が契機となって、荒川の改修及び水門の工事が始まった。 この工事の主任技師だった青山士は、パナマ運河工事に直接関わった唯一の日本人技術者で、この難工事を成功させた大きな推進力となった。 青山士は明治36年に米国に1年滞在。明治37年にパナマに渡り、ガツン閘門の測量調査、閘門設計等に従事。日本帰国後、明治45年に内務省技師として採用された。 大正4年に青山士が設計した岩淵水門は、5年に着工し13年に完成した。 荒川放水路は大正2年から昭和6年まで工事をして完成した。青山士は大正7年から荒川改修及び放水路開削工事の責任者になる。 |
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昭和 |
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昭和6年 印刷局滝野川工場、西ヶ原(二丁目)に建設。 山川製薬志茂(三丁目)に設立。(現在の日本化薬東京工場) 参考 → 昭和7年の王子区の地図・滝野川区の地図 昭和14年 印刷局東京病院開設(西ヶ原二丁目)。 日本特殊鋼材工業神谷(三丁目)に設立。(現在の日本金属) 昭和15年 軍事施設が集中する為、軍需景気が高まり人口は急増。王子区・滝野川区あわせて351009人にも達した。戦争に突入すると、本土空襲などにより甚大な被害を受け、人口は14万人にまで激減した。 参考 → 戦災図 戦後 敗戦とともに軍施設は解体した。なかでも、第一陸軍造兵廠東京工廠と東京板橋陸軍第二造兵廠の解体によって、光学機器・精密機器・化学・薬品・火薬などの技術者が職を失った。しかし高度な技術をもった専門家が民間に流出した結果、戦後北区・板橋区の光学機器・精密機器・化学・薬品・火薬の企業が、日本の高度成長にあわせて育っていった。 又公害問題も深刻になり、寶酒造・日本染色・日産化学などの企業が北区から移転していった。 かっての広大な軍用地は、学校・団地・公園・工場・研究所・競技場などに利用されている。 その建設時に植えられた桜が、各地で花見の名所になってきました。 |
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