浮間ヶ原の桜草


 
桜草はプリムラの仲間です。プリムラは、主に北半球の温帯・寒帯や高地に約二百種があるとされ、日本に14種が自生しています。その代表種が桜草です。学名をプリムラ・シーボルディといい、日本から中国東北部にかけて自生する小さな多年草でわが国では四国と沖縄を除いて、各地に分布しています。
 自生地は山間原野の湿地帯にあり、群落をつくります。荒川流域の桜草は、元は秩父山中などから流れつき、繁殖したものだと考えられています。
 この地は江戸時代から浮間ヶ原と呼ばれ、現在の戸田、志村、川口、田島ヶ原などとともに,桜草の自生地として有名でした。かって、荒川沿岸のこれらの地域に大群落をつくった桜草も、現在では埼玉県の浦和市(現在のさいたま市)の田島ヶ原に昔の面影をとどめるだけとなってしまいました。いま、荒川の堤防に立って浮間を一望すると、むかし荒川の本流であった浮間ヶ池をのぞいては、宅地、工業地に変わってしまい、江戸時代に桜草が一面に生えていたということを想像することはできません。
 この浮間ヶ池の桜草が全国的に知られるようになったのは、江戸幕府の初期のころです。徳川家康は江戸に居城を構えてから、しばしば浮間ヶ原に鷹狩りに出ました。その折、名も知れぬ雑草の中に混じってひっそりと咲いている桜草の可憐さに心をひかれ、持ち帰って鑑賞したのが始まりであると言われています。その後、各大名や旗本が競って栽培を始め、やがて町民の間にも広まりました。
 当時の桜草愛好家たちは、自然の突然変異による花変わりのものを自生地から採集したり、また、交配によって新種をつくり出すことにも意欲的に取り組みました。そして、文化から天保時代にかけては桜草コンクールも盛んに開かれ、栽培桜草の全盛時代が築き上げられたのです。
 その当時の浮間ヶ原は、桜草が群落をつくり、四月ともなれば一斉に花が咲きそろい、一日の清遊を求める花見客が荒川をさかのぼり、茶店も立ち並んで、桜の名所飛鳥山とともに、大いに賑わったものと言われています。
 この情景は、昭和の初期まで続きましたが、荒川の改修、築堤工事により荒川の本流が大きく変えられ、そのために桜草の繁殖と生育に必要な荒川の氾濫はなくなってしまいました。また、関東大震災の復興の折、桜草の生育に適していた荒木田土は壁土として乱掘され、浮間の自然環境が急変し、桜草は減少していったのです。それでも昭和二十二年頃までは、堤防わきや湿地帯に自生の桜草が残っていました。しかし、これらの湿地も、埼玉県の戸田にボートレース場がつくられたときの残土によって埋め立てられ、工場地や宅地に変わっていきました。その後、桜草は、地元の愛好家たちの手で庭などに保存されるに過ぎなくなりました。そして、昭和三十七年八月には地元の人々によって浮間桜草保存会が結成され、保存会の人々の心を込めた栽培作業によって、桜草があたり一面に広がる浮間ヶ原の面影がよみがえってきました。
 
浮間さくら草祭りに北区/浮間ヶ原桜草保存会から配布されたパンフレット(下記の黄色の用紙)より
パンフレットには桜草の栽培にかんすることも記載されいます。浮間さくら草祭りに行ったときはもらうことをお奨めします。


浮間ヶ原桜草圃場

毎年4月中旬から下旬まで公開される。