太田道灌と静勝寺


自得山静勝寺道灌堂の木像
道灌堂は毎月26日に開扉し、毎年7月26日には道灌まつりが盛大に行われる。

◎太田道灌誕生
大田道灌は、永享四年(1432年)扇谷上杉氏の家宰大田備中守資清の子として生まれた。幼名鶴千代。9歳にして鎌倉建長寺に入って学問を習い、15歳で元服。扇谷上杉氏当主上杉持朝より一字を授けられて、源六郎持資と称した。資長とも称している。
康生元年(1455年)父資清(剃髪して道真)の隠居により家をついだ。
主家上杉家と対立していた古河公方足利成氏の古河城の押えとして、長禄元年(1457年)江戸城を築城し移った。長禄二年(1458年)剃髪して道灌と号した。

※康生二年(1456年)道灌が天城山に巻狩りをした際、川面より湯煙が立ち昇りながら海に注ぐ濁川(静岡県東伊豆町)を見出し川辺に立ち止まると、猿や猪が集りて川のほとりに湧き出るこのお湯にてその傷を癒している姿を垣間見た。道灌は自らも温泉につかり、その傷を癒し生気がみなぎるのを感じたので、その地を「熱い川」→「熱川」と命名した。道灌が江戸城築城の際、熱川付近から築城に使う石を切り出したと伝えられている。

熱川温泉にある道灌乃湯と太田道灌像

◎当時の関東の政治情勢
永享の乱(1438〜1439年)によって鎌倉公方足利持氏は自害。
結城合戦(1440〜1441年)持氏の遺児、安王丸・春王丸、常陸国で挙兵、結城城が落城し安王丸、春王丸捕らえられ後に殺される。
幼少を理由に命を助けられいた持氏の四男永寿王は、その後元服して宝徳元年(1449年)に鎌倉公方足利成氏を称した。公方となっても政治の実権は関東管領山内上杉憲忠に握られていた。
成氏は権力の奪還を狙って、次第に上杉氏と対立するようになり、宝徳二年(1450年)に上杉氏から江島合戦にて勝利を収めて和睦した。享徳三年(1454年)になると、成氏は結城・武田・里見氏らに命じて関東管領上杉憲忠を討ち取らせて父持氏の恨みを晴らした。
これを契機に康生元年(1455年)正月より、公方と管領の両勢力は本格的な武力抗争を展開、以後文明十四年(1482年)11月に幕府と古河公方足利成氏との和睦が成立するまで大規模な戦乱が展開されました。これを享徳の乱と称します。享徳の乱勃発後、足利成氏は鎌倉から下総古河城に移り、上杉方は武蔵五十子城(埼玉県本庄市)を本陣とした。
長禄二年(1458年)幕府は新しい鎌倉公方として将軍義政の弟政知を送ったが、箱根山塊を越えることができず、伊豆の堀越(静岡県田方郡韮山町)に館を構えて伊豆を領国とする堀越公方と称しました。堀越公方の探題として幕府から派遣されたのが渋川義鏡で、武蔵渋川氏を継承し蕨城(埼玉県蕨市)を拠点とし、現在の台東区浅草も拠点としていました。


◎長尾景春の反乱
享徳の乱で公方と管領の両勢力は本格的な武力抗争を展開いる中、管領上杉氏側に内部抗争がおきます。長尾景春の反乱です。
文明五年(1473年)6月山内上杉氏の家宰長尾景信が死去すると、その弟長尾忠景を後任の家宰に任じました。山内上杉氏当主上杉顕定は越後上杉氏からの養子で、家督相続後家宰長尾景信を中心とする関東系被官と顕定の側近系被官の対立が生じていました。顕定の側近系被官が主導権を握ったことにより、反顕定勢力が長尾景信の子長尾景春に結集しました。
太田道灌は、対立する両者の融和に努めましたが、文明八年(1476年)折りしも駿河国今川氏に内紛が起り、解決のため太田道灌が江戸を離れた隙に、長尾景春が武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)に拠って叛旗を翻します。
長尾景春には、武蔵の豊島氏・毛呂氏・千葉氏、相模の本間氏・海老名氏、古河公方足利成氏、下総の千葉氏が与同しました。この叛乱は文明十二年(1480年)12月長尾景春が没落するまでの4年間にわたって、関東全域を巻き込んで展開されます。


◎豊島氏を滅ぼす
文明九年(1477年)1月長尾景春は上杉氏の本陣五十子城を攻め山内上杉顕定・長尾忠景・扇谷上杉定正らを上野那波荘に追いました。駿河から急ぎ江戸城に帰った道灌が武蔵以南における上杉方の有力者として一人残された状態でした。
道灌は不穏な動きにでた景春与党に対してその鎮圧こそ先決と考えて攻撃を開始しました。
文明九年(1477年)3月18日には景春方の溝呂木城(神奈川県厚木市)が落城し、ついで小磯城同県大磯町)を攻略。つづいて小沢城(同県愛甲郡愛川町)を攻めた。
文明九年(1477年)4月10日には、武蔵国勝原(埼玉県坂戸市)で河越城攻略に布陣した景春軍(小机城主矢野兵庫)と戦いこれを打ち破りました。
文明九年(1477年)4月13日には、太田道灌は豊島泰明のたて籠もる平塚城(北区上中里)を襲うが、抵抗が激しく容易に落ちないので城下に火を放った。、いったん兵を引きあげて江戸城へ帰る途中、豊島泰経・泰明と江古田原沼袋で戦い激戦となった。豊島泰明を始め主だった一族が討死し豊島泰経は石神井城に敗走した。4月28日石神井城は落城し豊島泰経は没落した。
文明十年(1478年)正月豊島泰経は道灌の上野在陣の隙をついて平塚城に蜂起するが、道灌が帰陣すると正月25日に平塚城は落城した。豊島泰経は小机城(横浜市港北区小机町)に敗走し籠城したが4月2日落城し、豊島氏は名実ともに滅亡を遂げた。


◎長尾景春・古河公方との戦い
文明九年(1477年)5月13日、太田道灌は山内上杉顕定、扇谷上杉定正とともに本陣五十子城を回復。5月14日太田道灌は上杉勢が総力をあげて鉢形城を討つとみせかけて、長尾景春を用土原(埼玉県大里郡岡部町針ヶ谷)に誘い出し、完全に意表をつかれた長尾景春は敗退、鉢形城へ逃げ帰った。
7月古河公方足利成氏が長尾景春を支援するため、上野滝に出陣する。
太田道灌は、これに反応して9月上野片貝に兵を出す。顕定、定正らは上野白井城に移る。しかし、この後双方とも兵を引く。

文明十年(1478年)正月、上杉氏と足利成氏の間で停戦が成立、景春も成氏の説得で鉢形城に帰還した。
文明十年(1478年)7月太田道灌は鉢形城を攻め、長尾景春を秩父へ追放し、鉢形城は上杉顕定の居城となった。なお景春は秩父方面で文明十二年(1480年)まで抵抗を続けたが、やがて上杉氏に降伏しました。


◎非業の死
豊島氏の滅亡により、その旧領はほぼ扇谷上杉氏に接収され、その大部分は太田道灌の所領とされたとみなされます。太田道灌は長尾景春の反乱の平定を通じて、江戸周辺領主に指導的立場を確立した。
世の中は下克上の時代に移行しつつあり、大田道灌が主君上杉定正にとって危険な存在になりつつありました。
文明十八年(1486年)7月26日、太田道灌は主君上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に呼ばれ浴室内で刺客により非業の死をとげた。
上杉定正は道灌を倒すことにより下克上を防いだと思ったようだが、後に関東に君臨する後北条氏の祖北条早雲が伊豆堀越公方家の内紛に乗じて足利茶々丸を殺し韮山城を築いて伊豆国を掌握するのが僅か5年後の延徳3年(1491年)である。
道灌の死とともに扇谷上杉氏は日に日に衰えていった。一方太田氏は戦国時代は後北条氏の配下になり、江戸時代は5万石の大名、明治時代には子爵となった。

大田道灌の墓は神奈川県伊勢原市の洞昌院にある。

真偽は不明だが大田道灌の辞世の歌として
「昨日までまくめうしうをいれておきし、へむなしふくろいまやふりけむ」
が詠まれている。

◎自得山静勝寺  北区赤羽西1-21-17 曹洞宗

太田道灌が築いた稲付城址に、永正元年(1504年)道灌の禅の師匠雲綱が死んだ名将の菩提を弔うために草庵を結び道灌寺と名付けたのが寺の起源。
江戸時代に太田備中守資宗が境内を整備し、現在の山号と寺名に改めました。
太田氏は代々寺の援助をしてきましたが、道灌堂も、その中の木像も江戸時代寄進されたものです。



静勝寺道灌堂


静勝寺本堂



太田氏系図









道灌)


養子

(仲綱弟)







(清和源氏祖)






(太田氏祖)






※(1)




(浜松3万5千石)



(源三位)


(駿河田中5万石)
※(2)


※(1)太田重正の妹が徳川家康の側室お梶の方となったことが縁で、太田資宗は下野山川1万5千石、三河西尾35千石、更に遠江浜松3万5千石の大名となった。
寛永18年の浜松藩主の時に太田資宗は奉行に就任し、実務を担当した林羅山とともに本格的な武家の系譜編纂を開始した。これが『寛永諸家系図伝(または寛永諸家譜)』である。

※(2)
 資直-資晴(駿河田中5万石→陸奥棚倉5万石→上野館林5万石)
 -資俊(上野館林5万石→遠江掛川5万石)-資愛-資順-資言-資始-資功
 -資美(明治1年に遠江掛川5万石→上総松尾5万石・廃藩置県後は子爵)
  • 資言は資愛の四男で兄資順の養子になる。
  • 資始は近江宮川1万3千石堀田正穀の三男。資言の娘婿として家督を相続。寺社奉行・大阪城代・所司代・老中を歴任。老中として大老井伊直弼を助けて開港に尽力した。安政の大獄がおきるや大老井伊直弼と対立、老中を辞任した。その後謹慎を命ぜられたが、その後謹慎をとかれた。





参考